大樹に寄り添い生きる選択
母は自信家だ。昔も今も。
これには宗教の影響も多々あるんだと思う。
体調が悪くても、お金が無くても、生きてこれたのは神仏のおかげだという論理である。
個人が信じている分には問題ないが、これを子供に押しつける、いわゆる宗教2世問題が小学校高学年頃から顕著になり始めた。
道徳観や倫理観など、人々の幸せを願ったり、悪い事をすると自分に返ってくるなどの内容だけならむしろ有益だったかもしれない。
しかし、母の価値観には個人の努力や個性は反映されづらい。何故なら全ての事象は神仏を信じ敬う事で結果が変わるのだ。
お祈りを頑張ればテストでいい点が取れるし、将来いい会社に入れるといった具合だ。
これにより、知らず知らずのうちに親の選択した宗教を強要されることとなる。
この頃は見えない幸せを求めていた。
信じてみたり、疑ってみたりの繰り返し。
サボれば、見えない罰が襲いかかる。
大樹に寄り添い生きるしか選択出来なかった。
初めての引越し
小学2年の時に、母は念願のマイホームを建築、引越しすることとなった。
前の学校では友達がいたという記憶がほとんどない。
馴染めていなかったのかもしれないし、小学1、2年の記憶だからなのか?
だからすんなり、引越しを受け入れる事ができた。
転校先は1クラスしかない小さな学校。
アットホームな環境は個人的に合っていたと思う。
ただ、両親は仲が悪いままで、父はマイホームの建築に否定的だったと母からは聞かされていた。
当時、病気とケガで稼ぎが少なかった父からすれば当然の意見だったと思う。
望まれていない子ども?
母から聞かされた事がある。
『あの人(父)は3人目は要らないと言ってたんよ』
当時は、『あ、そうなんだ』くらいの感覚だった。
近頃、妻との口論の中でも、昔のことについての話題が増えたので、思い出したことを話すこともある。
冒頭の話をした時、妻は母に対しすごく嫌悪感を示した。
そもそも、あなた(僕)の存在を否定した発言だ。
父はそんなことを言う人じゃなかったし、万が一言ったとしても、本人に伝える意味が分からないと。
確かにそういう考えもあるねと思ったし複雑な気持ちになった。
幼少期のことばの遅れ
話し始めるのが、とにかく遅かったと聞いた。
3歳になるまで話すことがなかったようだ。
寝てばかりだったと。
話すようになっても問題が発生した。
カ行がア行になる。カラスもガラスも『アラス』になってしまう。
あまり記憶には残っていないが。幼稚園から小学1年くらいの間に『ことばの教室』に通うことで普通に話ができるようになったようだ。
この頃から発達障害の特徴が出ていたのだろうか。
しかし何事もなく現在に至っていた。
機能不全家族
僕が幼少期のころ、父は病気とケガを繰り返し入退院を繰り返していたそうだ。
3人の子どもと入退院を繰り返す父を抱え、母の苦労は計り知れないものだったんだろう。
物心ついたころには、父と母が要件以外のことを話しているのを聞いた記憶がない
それどころかいつも母に罵倒される父を見ながら哀れに感じていたと思う、
母は家計を支えるべく朝から晩まで働きに出る。
家にはほぼいない。
帰ってきても宗教の活動に出かけることも多かった。
ご飯は別に食べる事も多かった。父と一緒にご飯する事は皆無だ。家族の会話も特になく、母親の仕事の話、宗教活動の話を聞く程度。
連絡事項とか、欲しい物なんかの話はしたが、自分から学校での出来事とか、恋愛の話ができる環境ではなかったかなぁ。
協調性のない子ども
集団行動に馴染めない人がいるらしい。
そう、僕のことだ。
人から指図されたくない、時間を拘束されたくない。そんな子ども時代
当時は気合いの時代。弱音を吐こうものなら気合いが足りないで一蹴。そういう風潮が嫌いだった。
人が嫌いなわけではない。嫌いにもなれない。
幼稚園児のころ、園を脱走して近くの川で遊んでいたこともあったらしい。先生たちは必死に探してくれていたとか。
これは一見ダラダラしててワガママに見えるけど、ココロの叫びだったのかもしれない。